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アシュタンガヨガのある毎日
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「自分」なんてものはない

週末、とある禅の本を読んだ。
わかりやすいたとえを使い、
平易な言葉で書かれていて、
一般受けする感じの本だ。

が、なんでだか、
私にはちっとも響いてこないのよ。
禅の慣習や禅語を並べられても、
ごもっともな感じしか伝わらない。

ところが、
これと並行して読んでいた、
『幸福に死ぬための哲学』
池田晶子著(講談社)
の言葉はゴンゴン響きまくったね。
(以下引用はすべてこの本のもの)

禅のぜの字もでてこないけれど、
こっちのほうがよっぽど「禅」だ。

苦しみを苦しみだと思うのは、なぜでしょうか。人生に意味はありやなしやと苦しむのはなぜでしょうか。それは、人生には意味があるものだと思っているからです。しかし、もしも、人生にはとくに意味は最初からないとしたら、どうでしょう。意味はありやなしやと苦しむこと自体が、ひょっとしたら、勘違いなのかもしれませんよ。

そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。
このことの不思議に思い至れば、人間が自分の人生について、自分の意志で決断してどうのこうのということが、いかに小賢しいことであるかにも気づくでしょう。人間が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。人生は自分の意志を超えているのです。

要はですね。
そんじょそこいらの、
上っ面を撫ぜただけのような
人生指南書はたいして役に立たん!

それをさんざん経験してきた私は、
インド思想に出会って、
ガツンガツン殴られたり、
バッサリと斬られたりして、
はっと気づいていくうちに、
無敵の親友を得たと確信している。

インド思想を知っていくと、
当たり前だと思ってきたことは
当たり前じゃないんだよ、
ということがわかるんだ。

つまり、
「ある」と思っていたものは、
そう思わされていただけで、
実体なんてないんじゃね。

とか

「我思うゆえに我あり」
の<我>は、
ほんとうの<我>ではないかもよ。

とか

今まで疑いもしなかったことを
疑うという仕方で、
とらわれていた自分を消す。

そういうことをしていくうちに、
今まで堂々巡りだったあれこれが、
根底からくつがえされて、
片付いていくようになる。

「自分探し」をする人が、自分を探して決して見つからないのは道理なのです。「自分」というものへの問いの立て方を、初めから間違えている。
「自分」なんてものは、本当は、何ものでもないのです。そんなものは、あるようで、ないのです。本気で考えれば、あるんだかないんだかわからないようなそんなものが、何か確固として「ある」ように人は思い込んでいるから、じつはないようなものを「探す」という徒労に走ることになる。ダマされたと思って、一度、「自分」というものは「ない」と思って生きてみてください。人生きっと変わりますね。


「自分なんてない」とか「無」とか、
インド思想の根本は否定だけれど、
実は知れば知るほど、
すべてがつながってくるという不思議。

ああ、デカルトにだまされてた
私がバカだった。

この本には、「禅」も「ヨガ」も
「インド」もでてこないのに、
私が言いたいと思ってることが、
あっちにもこっちにも書いてある。

幸不幸とは、「境遇」とは別のことだ。
幸福とは、努力である。外的なあれこれによらなくても、いかなる境遇にあろうとも、それ自身で常に幸福であることができるための、魂の努力である。


小手先の人生指南や、
耳に心地よいだけの法話は、
その場限りでしかない。

ほんとうに幸福になりたかったら、
ヨガや禅の実践とともに、
ぜひインド思想を学んでみて。

今度の日曜日は、ちょうど、
こんなお話を含むギータークラスです。
「魂の努力」について知りたい方なら、
どなたさまも歓迎です。
http://www.chazenyoga.com/#!gita/cgzo
「自分」なんてものはない_a0077315_18523176.jpg

この方には「自分」なんてない。
ただ、食べたい。
かわいがってもらいたい。
という思いがあるのみ。
by chayoga | 2016-05-09 18:55
アシュタンガCHAZEN
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