アシュタンガヨガのある毎日
S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
「自分」なんてものはない
週末、とある禅の本を読んだ。
わかりやすいたとえを使い、
平易な言葉で書かれていて、
一般受けする感じの本だ。
が、なんでだか、
私にはちっとも響いてこないのよ。
禅の慣習や禅語を並べられても、
ごもっともな感じしか伝わらない。
ところが、
これと並行して読んでいた、
『幸福に死ぬための哲学』
池田晶子著(講談社)
の言葉はゴンゴン響きまくったね。
(以下引用はすべてこの本のもの)
禅のぜの字もでてこないけれど、
こっちのほうがよっぽど「禅」だ。
要はですね。
そんじょそこいらの、
上っ面を撫ぜただけのような
人生指南書はたいして役に立たん!
それをさんざん経験してきた私は、
インド思想に出会って、
ガツンガツン殴られたり、
バッサリと斬られたりして、
はっと気づいていくうちに、
無敵の親友を得たと確信している。
インド思想を知っていくと、
当たり前だと思ってきたことは
当たり前じゃないんだよ、
ということがわかるんだ。
つまり、
「ある」と思っていたものは、
そう思わされていただけで、
実体なんてないんじゃね。
とか
「我思うゆえに我あり」
の<我>は、
ほんとうの<我>ではないかもよ。
とか
今まで疑いもしなかったことを
疑うという仕方で、
とらわれていた自分を消す。
そういうことをしていくうちに、
今まで堂々巡りだったあれこれが、
根底からくつがえされて、
片付いていくようになる。
「自分なんてない」とか「無」とか、
インド思想の根本は否定だけれど、
実は知れば知るほど、
すべてがつながってくるという不思議。
ああ、デカルトにだまされてた
私がバカだった。
この本には、「禅」も「ヨガ」も
「インド」もでてこないのに、
私が言いたいと思ってることが、
あっちにもこっちにも書いてある。
小手先の人生指南や、
耳に心地よいだけの法話は、
その場限りでしかない。
ほんとうに幸福になりたかったら、
ヨガや禅の実践とともに、
ぜひインド思想を学んでみて。
今度の日曜日は、ちょうど、
こんなお話を含むギータークラスです。
「魂の努力」について知りたい方なら、
どなたさまも歓迎です。
http://www.chazenyoga.com/#!gita/cgzo
この方には「自分」なんてない。
ただ、食べたい。
かわいがってもらいたい。
という思いがあるのみ。
わかりやすいたとえを使い、
平易な言葉で書かれていて、
一般受けする感じの本だ。
が、なんでだか、
私にはちっとも響いてこないのよ。
禅の慣習や禅語を並べられても、
ごもっともな感じしか伝わらない。
ところが、
これと並行して読んでいた、
『幸福に死ぬための哲学』
池田晶子著(講談社)
の言葉はゴンゴン響きまくったね。
(以下引用はすべてこの本のもの)
禅のぜの字もでてこないけれど、
こっちのほうがよっぽど「禅」だ。
苦しみを苦しみだと思うのは、なぜでしょうか。人生に意味はありやなしやと苦しむのはなぜでしょうか。それは、人生には意味があるものだと思っているからです。しかし、もしも、人生にはとくに意味は最初からないとしたら、どうでしょう。意味はありやなしやと苦しむこと自体が、ひょっとしたら、勘違いなのかもしれませんよ。
そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。
このことの不思議に思い至れば、人間が自分の人生について、自分の意志で決断してどうのこうのということが、いかに小賢しいことであるかにも気づくでしょう。人間が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。人生は自分の意志を超えているのです。
要はですね。
そんじょそこいらの、
上っ面を撫ぜただけのような
人生指南書はたいして役に立たん!
それをさんざん経験してきた私は、
インド思想に出会って、
ガツンガツン殴られたり、
バッサリと斬られたりして、
はっと気づいていくうちに、
無敵の親友を得たと確信している。
インド思想を知っていくと、
当たり前だと思ってきたことは
当たり前じゃないんだよ、
ということがわかるんだ。
つまり、
「ある」と思っていたものは、
そう思わされていただけで、
実体なんてないんじゃね。
とか
「我思うゆえに我あり」
の<我>は、
ほんとうの<我>ではないかもよ。
とか
今まで疑いもしなかったことを
疑うという仕方で、
とらわれていた自分を消す。
そういうことをしていくうちに、
今まで堂々巡りだったあれこれが、
根底からくつがえされて、
片付いていくようになる。
「自分探し」をする人が、自分を探して決して見つからないのは道理なのです。「自分」というものへの問いの立て方を、初めから間違えている。
「自分」なんてものは、本当は、何ものでもないのです。そんなものは、あるようで、ないのです。本気で考えれば、あるんだかないんだかわからないようなそんなものが、何か確固として「ある」ように人は思い込んでいるから、じつはないようなものを「探す」という徒労に走ることになる。ダマされたと思って、一度、「自分」というものは「ない」と思って生きてみてください。人生きっと変わりますね。
「自分なんてない」とか「無」とか、
インド思想の根本は否定だけれど、
実は知れば知るほど、
すべてがつながってくるという不思議。
ああ、デカルトにだまされてた
私がバカだった。
この本には、「禅」も「ヨガ」も
「インド」もでてこないのに、
私が言いたいと思ってることが、
あっちにもこっちにも書いてある。
幸不幸とは、「境遇」とは別のことだ。
幸福とは、努力である。外的なあれこれによらなくても、いかなる境遇にあろうとも、それ自身で常に幸福であることができるための、魂の努力である。
小手先の人生指南や、
耳に心地よいだけの法話は、
その場限りでしかない。
ほんとうに幸福になりたかったら、
ヨガや禅の実践とともに、
ぜひインド思想を学んでみて。
今度の日曜日は、ちょうど、
こんなお話を含むギータークラスです。
「魂の努力」について知りたい方なら、
どなたさまも歓迎です。
http://www.chazenyoga.com/#!gita/cgzo
この方には「自分」なんてない。
ただ、食べたい。
かわいがってもらいたい。
という思いがあるのみ。
by chayoga
| 2016-05-09 18:55
アシュタンガCHAZEN
カテゴリ
タグ
シュー荒くれ(912)
禅と仏教(262)
私的練習記(184)
旅(163)
神楽坂(123)
カラダ(115)
本(108)
アーサナ(81)
おいしいもの(75)
食養生と実験記(69)
空(66)
ココロ(46)
言の葉(45)
新潟anjali(37)
タフィー(29)
田んぼ(8)
リトリート(3)
禅と仏教(262)
私的練習記(184)
旅(163)
神楽坂(123)
カラダ(115)
本(108)
アーサナ(81)
おいしいもの(75)
食養生と実験記(69)
空(66)
ココロ(46)
言の葉(45)
新潟anjali(37)
タフィー(29)
田んぼ(8)
リトリート(3)
検索
以前の記事
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
more...
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
more...
記事ランキング
その他のジャンル