
アシュタンガヨガのある毎日
そのものと一つになる2014
永平寺の参禅研修というのは、
修行僧に準じた内容で、
坐禅や応量器飯台を実践するが、
坐禅は時間も短く、
攝心などに比べるとかなりラクだし、
作法が難しい応量器飯台のほうが、
多くの人にとって難関だ。
それなのに、今回は
体調悪くて坐禅が大変だった。
二日目午前の坐禅中、
眠くて眠くて、
自然に瞼が閉じてしまう。
そのときは単なる眠気と思ったが、
次の(興味深い)講義の時間も、
そのあとの坐禅も異様に眠くて、
どんどん具合が悪くなっていった。
坐禅堂は寒いもの。
しかも外はみぞれ。
なのに、冷えとり上半身のまま、
薄着で臨んじゃったから、
もう冷えて冷えて。
具合悪くなってしまったらしい。
次の日は頭痛がひどくなって、
ゾクゾクして、
気持ち悪くなってきた。
かなりやばい。
坐禅中にうっ、なんて、
東司(お手洗い)に駆け込みそう。
これはもう、
部屋で休ませてもらうしかないな。
と考えたそのとき、
ふと思い出したのだ。
宮崎奕保禅師(前の永平寺貫主)が、
大病をしたとき、医者の目を盗んで
坐禅をしていた話を。
それで最終的に病気を克服したという。
「坐禅をすれば善き人になる」のだ。
そうだ。
坐禅をすることで克服してみよう。
体調の悪いのは、
心が迷ってるからかもしれない。
休むことを考えず、
今この坐禅を成し遂げよう。
そう決めて坐り続けた。
すると、
その回が終わってしばらくして、
ふと気づいたら、
あんなに気持ち悪かったのが、
なくなっていた。
頭痛もかなり和らいでいる。
うそみたいに。
やっぱり心の迷いだったのかな。
だから、迷いがなくなったときに、
具合の悪いのが消えたのだな。
考えないこと。
そのものと一つになること。
それを教えてくれるのが坐禅だ。
思えば、
私は応量器飯台に執着して、
坐禅をややないがしろにしていた。
坐禅なら永平寺でなくてもできる。
そういう思いがあったのだろう。
昨日、
坐禅はイマイチだったと書いたけど、
イマイチだったからこそ気づけた。
実は作法を覚えられたことより、
そっちのほうが大きかったと今は思う。
とにかく、どんな些細なことでも、
ひとつひとつをていねいに、
そのものになりきってやること。
それが道元禅師の教えであり、
それを実践するための永平寺なのだ。
ちょうどそのあと、
気分転換プログラムとなって、
みんなで永平寺ダムまでお散歩。

夕方までには、
鎮痛剤を飲んだかのように、
頭痛もなくなっていた。
永平寺の春。

残すは「秋は月」の季節。
今年中に達成なるか。
修行僧に準じた内容で、
坐禅や応量器飯台を実践するが、
坐禅は時間も短く、
攝心などに比べるとかなりラクだし、
作法が難しい応量器飯台のほうが、
多くの人にとって難関だ。
それなのに、今回は
体調悪くて坐禅が大変だった。
二日目午前の坐禅中、
眠くて眠くて、
自然に瞼が閉じてしまう。
そのときは単なる眠気と思ったが、
次の(興味深い)講義の時間も、
そのあとの坐禅も異様に眠くて、
どんどん具合が悪くなっていった。
坐禅堂は寒いもの。
しかも外はみぞれ。
なのに、冷えとり上半身のまま、
薄着で臨んじゃったから、
もう冷えて冷えて。
具合悪くなってしまったらしい。
次の日は頭痛がひどくなって、
ゾクゾクして、
気持ち悪くなってきた。
かなりやばい。
坐禅中にうっ、なんて、
東司(お手洗い)に駆け込みそう。
これはもう、
部屋で休ませてもらうしかないな。
と考えたそのとき、
ふと思い出したのだ。
宮崎奕保禅師(前の永平寺貫主)が、
大病をしたとき、医者の目を盗んで
坐禅をしていた話を。
それで最終的に病気を克服したという。
「坐禅をすれば善き人になる」のだ。
そうだ。
坐禅をすることで克服してみよう。
体調の悪いのは、
心が迷ってるからかもしれない。
休むことを考えず、
今この坐禅を成し遂げよう。
そう決めて坐り続けた。
すると、
その回が終わってしばらくして、
ふと気づいたら、
あんなに気持ち悪かったのが、
なくなっていた。
頭痛もかなり和らいでいる。
うそみたいに。
やっぱり心の迷いだったのかな。
だから、迷いがなくなったときに、
具合の悪いのが消えたのだな。
考えないこと。
そのものと一つになること。
それを教えてくれるのが坐禅だ。
思えば、
私は応量器飯台に執着して、
坐禅をややないがしろにしていた。
坐禅なら永平寺でなくてもできる。
そういう思いがあったのだろう。
昨日、
坐禅はイマイチだったと書いたけど、
イマイチだったからこそ気づけた。
実は作法を覚えられたことより、
そっちのほうが大きかったと今は思う。
とにかく、どんな些細なことでも、
ひとつひとつをていねいに、
そのものになりきってやること。
それが道元禅師の教えであり、
それを実践するための永平寺なのだ。
ちょうどそのあと、
気分転換プログラムとなって、
みんなで永平寺ダムまでお散歩。

夕方までには、
鎮痛剤を飲んだかのように、
頭痛もなくなっていた。
永平寺の春。

春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪さえてすずしかりけり
(道元禅師)
残すは「秋は月」の季節。
今年中に達成なるか。
by chayoga
| 2014-04-10 22:05
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